【神様になった日】これは、はじまりへの物語である。

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こんにちは。中野です。

 

先日の11話「遊戯の日」が放送され、神様になった日も、最終話を待つのみとなりました。

 

当ブログでも、2話時点での考察記事を書いたりしました。それがなんだか、遠い過去のように思えてしまいますね。

 

さて、今回は1〜11話の内容を振り返って、この作品の本質について考えていきたいと思います。

 

 

・主人公について

まず、結論から言うと本作の主人公は佐藤ひなです。成神陽太ではありません。

これは、単に陽太を主人公と捉えると不快だから、という理由ではなく、本作の主題を考えたときに、ひなが主人公であるべきだと考えるからです。この前提を踏まえた上で、読み進めてください。

 

・本作の主題について

麻枝准氏が「原点回帰」を標榜していることからも、本作のテーマは「家族」になるでしょう。

登場人物それぞれの家族について記していきます。

 

ひな

→母親とは死別。父親はひなが7才のときに別れる。それからは祖父が面倒を見ていた。

 

陽太

→両親が健在。妹とも仲が良く、幸せな家庭環境。

 

伊座並さん

→母親と死別。父親もそれ以来塞ぎ込むようになった。

 

鈴木央

→両親に酷い扱いを受けていたが、殺害される。それ以降はCEOに育てられる。

 

阿修羅や神宮寺さんについては割愛します。

 

並べると分かりやすいのですが、陽太だけが何不自由なく日常を享受していた訳です。

だからこそ、彼は時として子供じみた行動を取ってしまうわけです。

8話で父親に元気なひなの姿を見せに行ったり、10,11話でのひなに対する行動などですね。

彼は18歳にしては余りにもアホすぎるんですよね。両親に甘やかされて生きてきた結果でしょう。

 

伊座並さんの家族についての描写は5話「大魔法の日」にて語られました。

ここでは伊座並さんの母がビデオメッセージを残していて、彼女は「幸せになれ」という魔法をかけます。それは、彼女のことを忘れて前を向いて生きることを説くものでした。

過去に囚われずに、前向きに生きてほしいという願い。母親の死に囚われていた伊座並さんと父親は、その言葉に救われます。

このビデオメッセージ、父親はずっと隠していたんですよね。大人である彼は「知らない方がいい事実」があることを知っていました。だから、怖れるし、秘匿してしまう。

ですが、結果的にこの事実は知っていた方が良かったものでした。

彼女の「魔法」は後述する「記憶」と深く関わってきます。

大切な存在の「死」に対する向き合い方、その命題と繋がっています。

 

そして、このエピソードの中心にいるのが、ひなです。彼女がいなければ母親の演技をして伊座並さんに電話するという手段は取れませんでした。もちろん、陽太個人で解決できる問題でもありません。

「神様になった日」は、このようにひなが関わった人々の願いを叶えていく物語であると言えます。

まるで、神様のように。

 

続いて鈴木少年。

彼にとって、家族と呼べる存在はいません。しかしながら、CEOは慈愛とも呼べる感情を持って彼と接していました。

これも、佐藤ひなという存在と関わることで彼が獲得できた繋がりだと言えます。

遠いところでも、ひなは願いを叶えているわけです。

 

ひなについては項目を分けて次の章で書きます。

 

・佐藤ひなについて

①君という神話

ひなは「ロゴス症候群」という先天性の病を患っていました。彼女の父親によると、立つことはおろか、話すこともままならない状況だったようです。

それが興梠博士という天才の手によって「あの夏のひな」が生み出されます。まさに奇跡と言えるでしょう。

しかし、奇跡は一瞬だからこそ強く光り輝く。「あの夏のひな」は永遠ではなかった訳です。例えるなら「真夏の陽炎」のような存在。

彼女が本来の「佐藤ひな」かどうかは一考するべきでしょう。

11話でも語られたように、陽太たちが接していたひなは本当のひななのか。それとも量子コンピュータによって生み出された幻影なのか。

9話「神殺しの日」では彼女自身が「この夏のわしは消えて無くなるが」と語っています。つまり、量子コンピュータを摘出してしまったら、記憶ごと「あの夏のひな」という人格も消え去ってしまうということ。

陽太は「あの夏のひな」を取り戻すために奮闘します。それが正しい方法かは置いておいて、彼は彼女の記憶ではなく、心に訴えかけたい訳です。ひな自身も「この想いが心のどこかに残っていてほしいと願っている」ことからも、可能性はゼロではないでしょう。

「あの夏のひな」はもう戻ってこないのか?と考えた時、人の本当の「死」が何なのかという問題にも関わってくるように思います。

 

本当の「死」とは忘れ去られること。

 

ですから「あの夏のひな」は逆説的に、まだ死んではいません。陽太たちの記憶の中で生き続けます。

 

「神様」として。

 

佐藤ひなは、人々の記憶の中で「神様になった」のです。そして、その思い出は「神話」として、語り継がれていきます。

 

 

②願望器としてのひなと、彼女自身の願い

先述した通り、全知を手に入れたひなは人々の願いを叶える神様でした。ある種、それは願望器とも呼べるでしょう。

「あの夏のひな」を興梠博士がプログラムした人格(=AI)と捉えると、願望器としての側面は、初めからプログラムされていた内容かもしれません。

また、ひなが量子コンピュータを手にしてから陽太の前に現れる──降臨する──まで300日以上必要としたのは、AIが自我を獲得するまで学習に時間がかかったと考えれば筋が通ります。

ですから、陽太の前に現れた時に「お前は何を望む?」と分かりやすく問うた訳です。

彼女は全知ですから、具体的に聞かなくても願いを叶えるために自発的に動くことが可能。

陽太を中心として、その輪の中で自然と全員の願望が叶うように仕向けたということです。

3話のラーメン回。これは神宮寺さんのラーメン店を再建する話。

4話の麻雀回は天願さんの「既存の枠組みに囚われない自由な麻雀を見たい」という願いが叶う話。

5話は伊座並さんが抱えていた家族の問題を解決する話。

6話は狙っていた訳ではないでしょうが、結果として阿修羅の願いが叶っています。

7話の映画撮影では、これまでの話で形成された人脈のお陰で空の映画撮影が叶います。

これらは全て、ひなが現れたことによって実現しました。結果的に、全て彼女の思惑通りに事が進んでいたということです。

では、肝心のひなと陽太の願いは何か?を考えていきましょう。

まず、陽太ですが、彼はこれまで何も考えずに生きてきた子供です。彼は主体的に行動することがないんですよね。

大学も伊座並さんと同じ大学、という他人ありきの考え方だし、ラーメン回や麻雀回もひなの指示通りに動いただけで、彼が主体的に考えて行動するシーンって無いんですよ。

だからこそ無知だし、世間知らずの子供だから、時として視聴者をイライラさせてしまうんですよね。

麻枝准氏は何の願いも持っていなかった平凡な子供が、ひなという少女に出会って、彼女を取り戻すために初めて主体的に行動し、大人になっていく成長を陽太を通じて描きたかったのではないでしょうか。とはいえ流石に描き方がまずいような気もしますが……。

話を戻すと、彼の願いはひなと出会ってから生まれたと考えられます。

「ひなとずっと一緒にいたい」という願いですね。

ですが、その願いは全知の彼女の力では叶える事ができません。何故なら、奇跡は一瞬だから。無限など存在しない。

彼は叶うことのない願いを抱えてしまった。

ならば、どうやって折り合いを付けるのか。

そう、先述した「神話」にするわけです。記憶の中でならば、一緒だと。

そうして、これまで無知だった少年は不条理な現実を知ることで大人になっていくわけです。

 

次に、主人公であるひなの願いを考えます。

「ロゴス症候群」によって喋ることもままならなかった彼女にとって、何不自由なく、普通の生活を送ることは何よりの願いだったでしょう。しかしながら、治療法の存在しない病であれば、それは難しい。

彼女の「当たり前に生きる」という願いを叶える方法を、晩年の興梠博士は考えていたはずです。そして、至った答えが量子コンピュータによる人格の形成。ただ、その方法では「本来の佐藤ひな」が不在になってしまう。

だからこそ「神様」としてのひなに「世界の終わり」というタイムリミットを設けた。

そして、その終わりを迎える前に「家族」や「友人」の繋がりを獲得させたかったのではないか。

その繋がりを広げていくために、人々の願いを叶えるプログラムを組んだ。

「人々の願いを叶える」ということは「善く生きる」とも言い換える事ができます。

少し飛躍してしまいましたが、簡単に言えば他人のために生きるということです。

「情けは人のためならず」という諺がありますが、他人のためにした行動が、巡り巡って自分の利益になるという意味です。

「他人の願いを叶える」というのは、その究極的な例と言えるのではないでしょうか。

そして「人々のため」というのはAIの行動原理と矛盾しません。興梠博士の狙いはここだったのではないかなと、私は考えました。ひなが人々の願いを叶える事で、ひなも、そして陽太たちも幸せになる未来を想像していた、と。

 

 

・これは、はじまりへの物語である

この物語が至るゴールは何処なのか。私の考えを最後に記したいと思います。

 

「あの夏のひな」は帰ってきません。しかしながら、彼女が残した繋がり──家族とも呼べる存在──は残り続けます。

その繋がりこそが、孤独だった彼女に、じいじが遺したものなのです。

本来の「佐藤ひな」の物語は、そこから始まる。家族の「愛」によって。

そして「あの夏のひな」は神様として、陽太たちの心に、思い出として永遠に生き続ける。

 

「世界の終わり」がもたらした、ある少女の「はじまり」──。

 

神様は自称するだけではなく、他者にそう認識されて初めて神様たりえる訳です。

「神様になった日」は陽太たちが「あの夏のひな」を神様と認識した日と言い換えられるでしょう。

 

これが私の考える、本作の本質です。

 

最終話を観る前に結論を出してしまいましたが、個人的にこの作品が作品として成立するためにはこういった落とし所でないと、正直気が狂ってしまいそうなので……。

私の出した結論をいい意味で裏切ってくれることを期待して、今回はこの辺で筆を置きたいと思います。

 

ここまで目を通していただきありがとうございました。